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考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

「意識」と「意識内容」

さて、
意識について考える際に重要なことのひとつは、
「意識」、と、「意識内容」、を混同しないことです。

特に、
人は、自分についての「意識内容」を自分である、とみなすことが多いのです。

ところが、
自分というのは、自分についての「意識内容」ではなくて、「意識」、なのです。

そのことも含めて、「意識内容」を意識し味わうところに自分という存在があるのです。

ここは少しむずかしいかもしれませんが大切なポイントです。

「意識」をコンピューターでたとえると、自分という「意識」は、表示装置(画面。モニタ)というか、表示装置の働きというか、表示装置に起こる現象というか、それ以上は例えられませんが、そういったものなのです(仮説。要検証)。

その表示装置として、ここでは、プロジェクターとスクリーン、をもちだしましょう。

基本的にはどんな表示装置でもいいんですが、プロジェクターが例えとしていちばんすっきりしそうですから。

プロジェクターというのは、投射映像装置のことで、スクリーンに映像などを映しだす機器のことです。

いちばんなじみの多そうなのは、映画館のそれですね。

レンズのついた装置からスクリーンに映像が投げ映されます。投映されます。

そのスクリーンでの現象が、「意識」を例えるたとえとして、最適でしょう。

で、
コンピューターの画面としてプロジェクターとスクリーンを使う、とするわけです。

それ以上によりよい例えの候補は今のところみつかりません(あとにだす予定の「池」の例えには、知性的なものを組み込めない)。

そこでは、
コンピューター本体の演算装置(計算装置)や記憶装置・そのほかの情報処理装置など(以下、情報処理の機能の部分と呼びます)は、脳の中の情報処理・記憶や知性的なもの・そのほかの機能(こちらも情報処理の機能の部分と呼びましょう)の例えとなります。

注)肉体的なものの例えも可能です。例えば、ウェブカメラは目、マイクは耳、など。

コンピューターの情報処理の機能の部分で処理された情報は、プロジェクターでスクリーンに投映(投影)されます。

そのときスクリーン上に、映像が生じます。

それを、スクリーンが、その映像を意識し味わった、とみなす、そういう例えです。

意識の主体をそうやってスクリーンに例えたわけです。

それ以外に、有効な例えは今のところ見いだせていません。

そのスクリーンが、自分という「意識」があるところの「意識の主体」にあたるわけです。

その例えで、意識の主体には、情報処理の機能がついていないことがおわかりだと思います。

意識の主体は、意識し味わうだけの機能・働きだけをもっていて、そのほかのものは有さない、ということです。

先ほどの、自分についての情報を、自分である、とかん違いすることが多い、というのも、その例えでわかると思います。

自分のすがた形がこれこれだから、自分の境遇がこれこれだから、自分の今までの経験・記憶がこれこれだから、自分は自分なのだ、と思う・感じる・断定する、といったようなことが普通一般になされているけれども、最も本質的なところで、それは間違いであって、意識の主体が自分なのである、ということです。

そういった三つの例にしても、それらは結局心の内容となり、それが「意識の主体」に送りこまれ「意識内容」となるわけです。

その意識内容を意識し味わう「意識の主体」こそが自分なのです。

もっとも、今現在においては、そういった情報(自分という肉体と心についての・肉体と心がたどってきたことについての情報)を、自分である、とみなすのは、間違いではなく正しいことといえます。

しかし、そういった自分についての情報は、一時的なものであって、そのうちさっさと変わっていくのです。

たとえば、
自分の意識の主体を他人の意識の主体に入れ換えれば、その他人が、今までの自分についての情報を自分であると意識し味わうことになる、そういったことも起こりうるのです。

自分の意識・意識の主体以外は、すべて変わりうるし、変わっていきます。
正反対にもなっていきます。

そのことは、帰納的に導き出されてきたわけですが、その具体や根拠は既にあちこちに記しました。


以上、仮説につき要検証。




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